難宗寺の歴史

難宗寺のはじまり

難宗寺は、文明9年(1477年)、
浄土真宗本願寺派第八代宗主・蓮如上人のご勧化により、守口の地に開創されました。

難宗寺のはじまり

守口の地とともに
歩んだ難宗寺

その後、享禄4年(1500)、蓮如上人の孫・実円師によって荒廃していた坊舎が再興され、周辺は寺を中心とした「守口寺内町」として整えられました。
江戸時代初め、本願寺が東西に分かれると守口の町も二分され、東本願寺派の盛泉寺が建立されるなど、大きな変化を迎えます。
1615年の大阪夏の陣では町と伽藍が焼失しましたが、寛永15年、村上良慶師により中本山として再興され、明治時代まで法灯が受け継がれました。

守口の地とともに歩んだ難宗寺

明治天皇行在所と難宗寺

明治天皇行在所と難宗寺
明治天皇行在所と難宗寺イメージ02 明治天皇行在所と難宗寺イメージ03

慶応4年(1868年)3月22日、明治天皇が大阪行幸の途中、行在所とされました。
その当時の御座所、玉座が残されています。
また、明治43年(1910年)、皇太子時代の大正天皇が父の明治天皇のご苦労を偲び、ご仮泊されました。
(御座所見学の場合は、難宗寺まで事前に電話にてお問い合わせ下さい)

現伽藍

現伽藍

現在の本堂は、寛永年間に再建された伽藍が台風や落雷によって傷んだため、長年にわたる尽力の末、文化4年(1808)に完成しました。
当時の門主・慧光院様の監督のもと、茨田郡の本山にふさわしい格式ある姿に整えられ、基礎部分には砂と粘土を重ねた堅固な工法が用いられています。
御殿、山門、太鼓楼、長屋門は本堂に続いて再建され、山門から見つかった上棟札には弘化3年(1846)の年号が記されています。
また、庫裏は大正年間、初代住職・芳滝智導師の入寺にあわせて再建され、地域の人々に支えられながら、現在に至るまで守り継がれています。

鐘楼と梵鐘

鐘楼と梵鐘

鐘楼に吊るされた梵鐘は、天和2年(1682)に鋳造されたものです。
かつて人々は、この鐘の音が届く範囲で暮らし、
行事の一時間前に鳴る鐘を合図に家へ戻り、お寺に集いました。
梵鐘には、お留守居・釈慶信と鋳物師・和田信濃の名が刻まれています。
戦時中には軍用資材として供出の危機もありましたが、名鐘として、また行在所の鐘であったことから守られ、今も変わらぬ音色で新年の訪れを告げています。

難宗寺の略史

開創 文明9年(1477)
ご開山第8代宗主 蓮如上人
実円師による伽藍再興と寺内町編成。 明応9年(1500)
東西分派 東御坊本堂完成、東西御坊に。
慶長11年(1606)
坊舎焼失 夏の陣で被災元和元年(1615)
寛永の再興と掛所 村上良慶師により再建され掛所(別格別院)に。
浄喜寺良慶師お留守居に。
寛永13年(1636)
聖徳太子・七高僧御影下付 寛永15年(1638)
梵鐘鋳造 天和2年(1682)
御絵伝下付 宝永7年(1710)
能化若森師難宗寺にて正信偶文軌出版。 享保3年(1718)
存在師現本堂再建募財開始。 明和2年(1765)
現本堂上棟 文化4年(1807)
付帯施設完成 文化7年(1810)
御殿、山門、塀再建 弘化3年(1846)
明治天皇行在所 慶応4年3月(明治元年・1868)
境内に守口小学校開校 明治5年(1872)
本山組織改革 明治10年(1877)
掛所制度廃止で一般末寺に。
本堂大屋根修復事業完遂 平成24年11月(2012)

住職 芳滝真慶