(行在所は公開しておりません見学はご容赦下さい)
慶応4年1月(この年の9月に明治と改元)鳥羽伏見で敗れた幕府軍は
、守口を通る街道を大阪城に敗走しました。それを追う形で、天皇の大阪親
征があり大行列は3月20日京御所をたち、初日は八幡の行在所。翌21日夜9時過ぎ激しい雨の中を難宗寺行在所に到着されました。西本願寺門
主は水路到着しお迎えされました。翌日は晴天の中ご出発。大阪の仮御所
となった北御堂(津村別院)に入られました。この御親征には大阪遷都の
計画もあり、三種の神器か文武百官も同行し、守口は一夜の帝都となりました。
(賢所は盛泉寺に)
・大正天皇と難宗寺:
明治43年、淀川架橋大演習の視察にご来阪の皇太子殿下は、父陛下の若き日のご苦労を偲びたいとのご希望から、難宗寺行在所に仮泊されました。京都から開通間のない京阪電車で堂脇橋の仮説駅にて下車され、難宗寺に入られました。この時、難宗寺境内には電灯(アーク灯)が点灯され、
真昼のような明るさでした。これは守口での最初の電灯です。この年は高
徳秋水の大逆事件があり警戒は特に厳重でした。
・秩父の宮様ご休憩:昭和8年工兵隊の架橋演習視察に見えた秩父宮は、父
君の大正天皇のゆかりの深い難宗寺へ休息に立ち寄られ、昼食をされました。
・本堂:寛永の伽藍は台風や落雷で傷み、3代50年にわたるお留守居のご 尽力により文化4年(1808)に完成しました。これには当時富田本照 寺と小浜毫摂寺の住職を兼務されていた18代門主第7子慧光院様のご監 督を頂き、茨田郡の本山にふさわしい格式高い形になりました。特に基礎の土壇の工事は完全で、砂層と粘土層を層状に重ねて作られています。
・御殿と山門及び太鼓楼や長屋門:これらは本堂に引き続き再建されたよう であり、山門から見つかった上棟札からは、弘化3年(1846)の年号 が見られます。本堂の屋根が御殿の屋根に重なっていますが、新しい本堂が以前より大きくなったためと思われます。なお、庫裏は大正年間に初代住職芳滝智導師入山に際し、自坊の善龍寺の門徒が山から木を切り出しここに運びそれで再建されました。芳滝智導 師は、村上家絶家に伴い本山要職を経て難宗寺住職として入寺されました。
・鐘楼と梵楼には天和2年9月(1682)と銘があり、寛永15年の再興時に作られたもので、当寺院では最も古い什器です。(後述)
本堂階段上の「ぎぼし」の下部をよくご覧下さい。当時は東海道57番
目の宿場であり商家が多く、それぞれの屋号(店名)を名字がわりに使用
していました。今では見られぬ商売もあります。真宗寺院は数多くの浄財
を集めて建立されます。
施主 文化七年
吹田屋伊右衛門、大工 治兵衛、世木屋 市松、駕籠屋 権九郎
樫 屋 伊三郎、魚 屋 千吉、車 屋 岩松、刀 屋 五兵衛
吉 田 き ぬ
石垣に残る寄進名 難宗寺の西外側(来迎町)塀の石垣(旧用水路跡)に
も見られます。
施主 弘化三年丙午四月
新 屋 新 助、大阪屋 伊太郎、大和屋 浅治郎、豆腐屋 藤 七
若松屋 弥兵衛、中嶋屋 弥右衛門、茜屋 宗兵衛、板 屋 金兵衛
梵鐘には天和2年9月(1682)と銘があり、寛永15年の再建時に 計画されたもので、当寺院では最も古い什器です。その音色が良いことか ら、黒船来航時に各地の梵鐘は徴発され大砲に鋳造された時、また先の世界大戦にも供出を免れました。その完成年月は梵鐘に記入されています。各自でお確かめ下さい。
「天和二年壬戌九月 茨田郡守口御坊什物 釈慶真代
鋳物師 京三条釜之座 和田信濃 鋳之」
梵鐘は、直径2尺6寸 高さ(竜頭まで)3尺6寸 重量150貫目
梵鐘は、寺の一番大きい仏具であり、門信徒にお寺のお勤めを伝える役目を持っていいます。始まる2時間前に鳴らして田畑で働く人達に知らせ ます。それを聞いた人達は、家に戻り、お寺に集まります。今とは異なり、人々は寺の梵鐘の音が聞こえる範囲で生活し働いていました。時間を知らせるのは、太鼓であり、難宗寺正面左に太鼓楼があります。 一番上の階に太鼓がありますが、時計が普及し使用していません。
大阪府の天然指定物指定(昭和50年3月31日指定)
守口市保存樹木指定8号(昭和55年2月15日指定)
推定樹齢 約400年
最大直径 1.5m
樹木高さ 25m
いちょう(銀杏)は水分が多く、燃え難いので大きい建物の防火用に広く活用されています。この木は、来迎寺開山実尊上人お手植え(約650年)蓮如上人(約500年)などの説がありますが、不明です。
なお、いちょうには雌雄2種ありますが、この木は雄木で実はなりません。